石川正樹とは?
変革のメンター 石川正樹からのメッセージ
私が社会に出てからの約三十年間、 個人と組織の生産性を如何にして高めるのか? 極大化するのか? それを追及し、研究し、実践してきました。
その経験の中で得たノウハウを 次の日本を背負って立つ起業家や事業家の方々へ 還元したいと考え、このサイトをオープンさせました。
石川正樹プロフィール
1946年12月生まれ。
製薬メーカー、外資系コンサルティング会社、国内コンサルティング会社を経て
有限会社ハート・ネット設立。
現在、数多くの企業や個人、非営利団体に トレーニング・モデリング・コンサルティングを行っている。
人間の「脳のメカニズム」を活用した「ハイパフォーマンス・コンサルタント」として
業績を上げている。
米国NLP協会 公認 神経言語プログラミング・トレーナー
米国催眠協会(ABH)認定 催眠心理療法士
ライフ・トラック公認トレーナー
石川正樹プロフィール(詳細)
1946年 広島県神石郡に生まれる。(ここは、母親の実家です。)
ほどなく群馬県高崎市へ移り、高崎で育ちました。
入学式に来たのは近所のおばさんでした。
なぜ母親が来ないのか疑問に思っていましたが、
後に母親は風邪で発熱していたためと判明。
転居のため転校したのですが、両親のミス(私に伝えなかった)で
前の学校に友達と登校しました。
新年度のクラス替えがあり、自分はどのクラスになるんだろう?と
思っていましたが、
結局名前は呼ばれず。
(それはそうですよね。転校しているんだから・・・)
この日はかなりフクザツな気持ちで帰宅したことを覚えています。
頭がぼーっと霞がかかったようになっていて、
中学時代のことはあまり覚えていません。
授業中、先生に質問しすぎ、
「お前がいると授業が進まない!」 と、廊下に立たされる日々。
(理不尽な理由ですよね?)
隣の国語の先生(須藤先生)に
「立っているのがイヤだったらこっちに来い」
と呼んで頂いたとき、
救われた思いがしました。
毎日TVで日本映画を観ることが楽しみでした。(小津安次郎など)
このことが、人間に興味を持つ原点のようです。
父親が芸術新潮を毎月とっていたので、何気なく眺めていました。
その影響からか、図画の粘土細工の授業で「女性のヌード像」を作りました。
かなり上出来だと思っていましたが、
担当の先生が両親に
「これは問題です!」
といって家庭訪問されたことを覚えています。
尚、両親からは「よくできている。」と言われたと記憶しています。
この頃に鉄棒から落ちて頭を打ち、おおきなタンコブができたことを覚えています。
その後からか、目の前がぱーっと開けたような、そんな感覚になりました。
(きっとこのことが目覚めのきっかけだったのでしょう(笑))
父親から 世界文学全集、日本文学全集、世界思想哲学体系、世界美術画集体系を読むといい、
と言って渡されました。
(父親は私を弁護士にしたかったようです。見事に期待を裏切りましたが(笑))
鉄棒から落ちて頭を打った以後、思想哲学体系を読み漁りました。
ロジカルに物事を考える、本質を追及することが重要だと漠然と考えていたようです。
絵が好きで、今でも絵画を購入したがる趣味があるのですが、 この中学時代に起因していると思われます。
普通高校入試に失敗し、夜間の商業高校に合格。
しかし、なぜか入試に失敗したハズの普通高校から
合格の通知が来る。
(後日、母親が全てを工作し、裏口入学できたと知りました・・・)
私立高校であったため、一番デキの悪いクラス(通称:学校経営貢献クラス)に入る。
せっかく夜間高校に入ったので、昼間と夜間のダブルスクール。
この頃、夜間高校の10歳も上の先輩方から、
人生について多くのことを学びました(笑)
ダブルスクールはあまりにも大変だったので(そりゃそうですよね。)
一年間で夜間高校はやめました。
今思えば、続けておけばよかったかな?とも。
本当に多くのことを学びました。
高校(普通高校)でも、授業中の質問グセは治らず(病気じゃないのですけれど・・・)、
あらゆる先生に本質的な(と、自分が思っているだけですが)質問をし続けました。
非常勤講師で数学を担当されていた鈴木先生
(その地域では有名な女子進学校の校長を長年つとめていらした方)から
「石川君の質問は大学院博士課程のレベルの質問だね!」
とほめられ、
数学の授業は先生と私の二人だけという世界をほぼ一年間、創り上げていました。
(他の生徒はほとんど寝ているという状況でした。)
個人授業同然でした。
その鈴木先生の計らいで、2学期から突然進学クラスに編入されることになりました。
(私を支援して頂いた先生、中学の須藤先生と高校の鈴木先生には今でも心から感謝しています。)
「学び方を学ぶ」本質を教えて頂いた私は成績もみるみる上がり、
裏口入学した高校を、3番の成績で卒業することができました。
今振り返ってみると、「本質を追及する」という概念は、
この頃身についたような気がしています。
人との出会い、縁がその後の人生に大きく影響を与えているんだなぁと、実感しています。
大学は農学部農芸化学科に進学。
その学部を選んだ理由は、
人間がいる限り、食料は必要だろう。
農芸化学であれば栄養、人間の生理なども学べるし。
そんな単純なものでした。
多くの学生がそうであったように、両親からの仕送りはスズメの涙!
寮に入り、大学生活をスタートさせました。
寮ですので、1年生から4年生までが同じ部屋で寝起きします。
当然、新入生の私が上級生の身の回りの世話をするという役回りでした。
ここで、対人関係の難しさや面白さを知ることになりました。
しかし、その寮は1年間で閉鎖となり、下働きで終わり。
特権階級(上級生)のうまみは経験できずしまいでした。
本当に残念!
学費のなさを憂いた先輩が農林省農業技術研究所(京浜東北線上中里駅)の助手のバイトを探してくれて、
その仕事におさまることになりました。
大学2年から3年までの間続けられ、公務員であったが組織で働くということがどんなものなのか、
自分の実体験として実感できました。
このとき、農技研のとなりの部屋に、
ロックフェラー財団の一つである世界稲作協会(IRI)の
日本支部(本部はマニラ)があり、
そこの代表者であった李さん(韓国 李王朝の末裔)から
昼休みに文化的な話を聴くことができました。
この経験が、後に、とある農政研究所の塾生を一年間やらせて頂いたときに役に立ったことを覚えています。
当時はベトナム戦争の真っ最中。
友人から 「稼げるアルバイトがある。一緒に行かないか?」と誘われる。
「稼げる」というコトバに反応して、一緒に行くことにしました。
しかし、このアルバイトは1日で逃げ帰ってくる結果になりました。
なぜならば、「米兵の死体をきれいに洗い、処理をして米国本国に戻す」というアルバイトでしたから・・・。
このアルバイトから、戦争のすごさ、むごさを垣間見ることができたように思います。
1年、2年の履修科目は全てとってやろう!と決めて、
それを達成。
教員(理科、数学)のコースも履修しました。
そのときに、教育心理学講師の中沢先生(教育大学からアルバイトで来ていた)と出会いました。
なんと、中沢先生は中学校の先輩であり、近所の知り合いでもあったので、
彼の研究室に出入りするようになりました。
そこで心理学とカウンセリングの面白さを知ることとなりました。
現在は人間の脳のメカニズムを踏まえてコンサルティングを行っていますが、
この出会いが私と心理学との出会いであり、原点だったと思います。
3年からは生物化学研究室に所属。
ビタミンの研究を行いました。
そこで、人間の身体の代謝について学びました。
これが、今になり脳のホルモン代謝メカニズムを知る上で大いに役立っています。
大学時代に所属していた研究室の教授のコネで、半ば強引に製薬メーカーに入社。
(あの当時は、教授の言葉が絶対!という時代でした。)
製薬メーカーでは、研究所に配属されることになりました。
ほどなく、研究職に魅力を感じていない自分自身に気がつきました。
研究職ではうだつが上がらない、何とか別のキャリアを考える必要があるなぁ、
と考えていたとき、
本社でクレーム処理ができる人材を募集しているという情報をつかみ、
すぐさま立候補し、採用!
晴れて本社勤務となりました。
ただし、クレーム処理をするために全研究室および全工場、全セクションを1年間かけて経験せよ!とのこと。
これ幸いと、工場の守衛を2週間やらせて頂きました。
工場勤務の方々を入り口で観察しているため、守衛さんが一番情報を持っていることを学びました。
このことが後に、本社総務の責任者になり、とあるトラブルを解決するときに大いに役立ちました。
このクレーム処理のプロジェクトでコンサルタントと出会いました。
一番若手のコンサルタントと親しくなり、コンサルタントという職業を初めて知ることになりました。
ここで、将来、コンサルタントで身を立てよう!と決心しました。 このとき24歳。
しかし、どのようなコンサルタントになるか?それはまだ漠然としていました。
コンサルタントになるためには、様々なことを知り、学び、身に付けなければならないと思い込み、
(当時はMBAの存在など知る由もない)
会社のあらゆるセクションに所属することを自ら願い出て、
可能な限り実践していました。
また、あらゆるセミナーに自費で参加していました。
夏のボーナスはセミナーに投資する!と決め、コンサルタントになるまで続けました。
(今振り返って考えると、家族の迷惑をかえりみず、大バカなことをしたものだと思います。)
とある有名セミナー会社の社長から
「また来たの?あなたはもう参加しなくてもいいよ。」
と忠告して頂いたことを思い出します。
セミナー中毒に気づかせて頂けて感謝!です。
「様々なことを知らなければ、身に付けなければコンサルタントはやれない」という想いが ドライバーであったようです。
上司から「石川さん、今度営業をお願いします。」と、
日本でも成績がビリの営業所へ赴任が決定しました。
最初はもちろん焦りました。
営業なんて、やったことありませんでしたから。
しかし、元来負けず嫌いの性格ですから、
「よーし、絶対に日本で一番の営業所にするぞ!」と心に決め、
自分自身に半年間という期限を設定し、初めての営業職にチャレンジを始めたのです。
しかし、やはり闇雲に、がむしゃらにがんばっても営業成績なんて伸びるはずもありません。
そこで、私は思いつきました。
「日本一の製薬メーカーのセールス(MR)から、その奥義を伝授してもらえばいいんだ!」
極めて単純な発想から、日本一の製薬メーカーのセールスを探し出し、会社を通じて、ダメ元で弟子入りをお願いしました。
しかし、答えは二つ返事でOK!でした。
その製薬メーカーは懐が深い、粋な会社でした。
トップセールスマンに2週間同行させてもらった上に、
デスクと電話、名刺まで用意して頂けたのです。
それにはさすがの私も驚きました。
その理由を尋ねると、そのトップセールスマンはこう答えました。
「だって、私に弟子入りしてトップセールスになりたい!なんて言う人は、面白い人に決まっていますから。」
なんて心が広い方なんだろうと思いながら、
2週間みっちり同行させて頂き、
それこそ寝食を共にして、トップセールスの秘訣を必死で学び取りました。
その時は、その行為が「モデリング」と呼ばれる手法であることは知りませんでしたが、
今思うと、まさにモデリングを行っていたんだなぁと実感しています。
とても感慨深い思い出になっています。
大学ノートで5冊、トップセールスの彼が取っていた行動全てを分析し、体系化しました。
もともと研究所出身ですから、分析して体系化をするという行為はお手の物でした。
こんなところで理系で研究所出身という経歴が大きく役に立つとは思ってもみませんでした。
体系化したノウハウは、私にノウハウを提供してくれたトップセールスの方にお渡ししました。
すると、そのトップセールスの方は
「えー!石川さん、私はこんなことをやっているんですか?ありがとう!」
と言って大変感激され、
しかも、そのお礼にということでその方の上司である支店長からコンサルタントフィーまで支払って頂きました。
(もちろん当時はコンサルタントではありませんでしたが。)
なんとも心の大きなセールスパーソン&支店長だったのでしょう。
その行動には心から感動させられました。
そして、私もそのノウハウを使って営業活動を行った結果、半年という目標に対し、
三ヶ月で全国○支店中ビリだった営業所を、全国一位の営業所に躍進させたのです。
それ以来数十年、それこそ1000名以上のトップセールスの方々とお会いさせていただき、
インタビューし、モデリングした結果を体系化し続け、現在の「NLP営業研修」を創り上げたのです。
様々な職業経験が、現在のコンサルタント業に役立っていますが、
一番は社長秘書の経験が役立っています。
この社長は一部上場企業の社長も兼務していた方で、
会社経営の何たるか、本やセミナーでは学べないことを数多く学ばせて頂きました。
もう一つは医薬品企業法務研究会(医法研)の事務局長を一年間、
法律の門外漢の私が担当させていただいたことです。
これらの体験、経験で、様々な考え方の違う人々の調整をとることの本質を身に付けさせて頂いたように思います。
40歳を目前にして、一人になるといつも
「何かやり残しているんじゃないか?」
という自問自答を繰り返していました。
その想いが日に日に強まり、
気がつくと
「20代で将来はコンサルタントになる!と決めて色々と勉強してきたじゃないか!どうなんだ!」
という声が脳内で聞こえてくるようになりました。
新聞の求人欄で、コンサルティング会社を見つけては印を付け、切り抜くありさま。
一度の人生、自分のやりたいことをやろう!
そう決めて、コンサルティング業界に飛び込みました。
気がつくと、人間を扱う専門のコンサルティング会社に入社していました。しかも外資系。
アメリカのコンサルティング会社に入ってしまいました。
もちろんそこは全くの異文化の世界。
戸惑うどころの話ではありません。
同期入社のコンサルタントは半年もしないうちにクビになり、
年俸制の給与は一年間保証されている訳ではないことを初めて実感しました。
しかし、全てを捨てて飛び込んだこと。 コンサルタントで生きていくことを更に強くマインドセットしました。
一番腕のいいコンサルタントに弟子入りをして、モデリング(まねをする)する日々。
このとき、NLP(神経言語プログラミング)と出会いました。
私は現在パフォーマンスコンサルタントとして、
個人及び集団、
そして、企業や非営利組織の望む業績・成果を実現する支援をしています。
NLPは脳のメカニズムを利用した道具であり、脳の取り扱い説明書のようなものです。
NLPなしでは私の仕事は成り立たないと言っても過言ではありません。
それだけ、NLPは人間の脳のメカニズムを認識し、利用するのに、切れ味の鋭い道具です。
私とNLPとの出会いは、ほぼ20年になります。
素晴らしく業績を上げているコンサルタント(アメリカ人)の秘密を
同僚のコンサルタント(アメリカ人)から謎解きをして頂き、その謎の道具(ツール)がNLPでした。
以来20年間絶え間無く使用してきたことになります。
つまり、NLPを知っただけではなく、臨床やビジネスの現場で「このような変化を創りだしたい!」と強く想い、
そのためにNLPをどのように使用するか、どう応用すれば「今以上、更に、もっと」効果的になるのか、
ひたすら実践的(実戦的)に追求してきました。
その流れで、アンナ・スウィルからプラクティショナー、マスタープラクティショナーを学び、
NLP共同創始者であるリチャード・バンドラー、そしてジョン・ラバーユのトレーナーズトレーニングを学びました。
更に自分の腕を磨くため、クリスティーナ・ホール女史のトレーナーズトレーニングを第一期生として学びました。
とにかく学んだことは全て実践し、実践した結果からフィードバックを得て、更に学び続けてきました。
やってみなくちゃわからない。
左脳的な知識は、皮膚感覚に落ちるまでは、単なる噂に過ぎません。
練習し、実践し、修正し、また学び、練習し、実践し、修正する。
単純なことですが、とにかく続けてきました。
2005年11月には日本NLP学院の北岡泰典氏からの紹介で
NLP共同創始者であるジョン・グリンダー先生から直接学ぶ機会を得て、
2006年からはジョン・グリンダー先生の開催するNLPコーチング、NLPトレーナーズトレーニングの
講師としても活動させていただくことになりました。
現在、私はハート・ネットというコンサルティング会社を経営しています。
組織と個人の改革、変革、変容を支援し、
ハイパフォーマンス(高業績)を達成させるという事業を通じて
社会に貢献しようと立ち上げた会社です。
ぼーっとしていた中学時代、裏口入学やダブルスクール、
そして進学クラスを経験した高校時代、
多くの出会いがあった大学時代、会社員時代を経て、
今現在の私が存在しています。
今まではこんな過去には誰も興味なんかないだろう、と思っていました。
でもそうじゃないということに気がついたんです。
自分自身が過去を全て受け入れることが重要なんだということ。
このことが重要なんだ、と。
私の歴史はまだまだ続きがあります。
現在進行中です。
まだまだ進化します。
こんな石川正樹を、今後とも、よろしくお願い致します。 2006年1月







